私の親は転勤族で定期的に転勤があり、そのせいで私もよく転校していました。
小学校でも2回の転校があり3校もいきました。
転校は、今までの友達とも別れ、誰も知り合いも友達もいないところにいくわけで本当に嫌で嫌でたまりませんでした。
私が小学校5年生の時、ある地方都市の小学校から札幌の小学校に転校することになりました。
その転校前の学校ではちょうど運動会も終わった頃でした。
私は、ずっとリレーの選手になることが憧れでしたが補欠止まりで、5年生になってやっとギリギリでしたがリレーの選手になることができました。
今はどうかわかりませんが、小学校の運動会のリレーはやっぱり花形種目でそのリレーの選手になるというのはある意味でヒーロー的な存在でした。
なので、やっとなれたときは本当にうれしかったです。
しかし、その後、親の転勤で札幌の学校に転校することになりました。
札幌の小学校ではまだその年の運動会が終わっておらず、ちょうどこれからリレーの選手を選ぶという時期に転校したのです。
私は転校してきたばかりですし、友達もいません。
そんな中、体育の授業を使ってみんなで100Mを走ってリレーの選手の選考が始まりました。
走ってはその上位だけが残っていく感じで、どんどん絞られていき、私は最後のメンバーまで残ることができました。
そして、ある意味で決勝戦のような100M走でなんと私は1位でゴールしたのです。
その時、学校で1番足が早いと言われていた子に勝ってしまったのです。
その時のざわめきは忘れられません。
とんでもない転校生が来たぞ!と学校中で話題になったようです。
次の日にはサッカー少年団の上級生がたくさんクラスにやってきて、入らないかとものすごい勧誘されましたね。
その学校は、グランドを囲むように校舎があり、そのグランドで毎日朝にリレーの選手だけ集合して練習がありました。
その光景を校舎の窓からずらーっとみんなが見ていて歓声が沸くのです。
本当にヒーローになったような気分でした。
あれほど嫌でたまらなかった転校でしたが、初めて良かったと思えた瞬間だったかもしれません。
なぜ急にこんな話をしたかと言いますと、別に過去の栄光を語りたかったわけではありません。
競馬の2歳戦線を見ていると毎年このことを思い出すからです。
つまり、転校前の学校ではギリギリでリレーの選手になれた程度の人間だったのに、転校した先では学校で1番になってヒーローになったのです。
その間、数ヶ月程度なので急に足が速くなったとは思えません。
つまり、周りの生徒のレベルが違っただけなのです。
競馬でもこういうことはよくあります。
新馬戦で圧勝して、次で人気になるも大敗し、なんだ新馬戦のメンバーが弱かっただけだったのかとか、新馬戦で負けるも次で圧勝して、あの新馬戦のメンバーってすごいメンバーだったんだなって後で言われたりよくありますよね。
昨日もシルクの馬が新馬戦を評価されて人気になるも大きく負けてしまいました。
これからもこういうことが繰り返されて本当にすごい馬が絞られていきます。
ちなみに、その後中学校では何校か合流し人数も増えた中、一応学年で2番目に足が速いということで面目は保てました。
しかし、高校に入ると陸上部のすごい子らがうじゃうじゃいて話になりませんでした。
新馬戦や500万で好勝負したので、いきなり重賞に挑戦したら勝負にならなかったという感じでしょうか。
なんか思い出したのでそんな話を書いてみました。
- 関連記事
-
スポンサーサイト
ロッテンマイヤーは惨敗でしたね。
僕が言いましたが屈腱炎からの復活は容易ではないのです。
ブライトエンブレムも中々予定が決まらないのですが僕が予言した通りです。
乗り越えるのは困難で信じるしかないです。信じましょう!
まーくさん足早かったんですね!
僕もなぜか足と給食だけは早くて何故か甲子園常連校からスカウトされました。
断りましたけどね。野球や運動より恋愛でしたね当時は(苦笑)